哲学がしたい
書くことが面倒になったら、もはや生きていることすら面倒だと言っているようなものだから、それはまずいので書いてみる。人に読まれることを想定して、テーマをひとつに絞ったり読みやすくなるよう改行したりすることを一旦放棄して、ただ流れに任せてぐにゃぐにゃ書いてみる。今、本を読んでいた。永井玲衣さんの『水中の哲学者たち』という本。一昨日近所の寂れたデパートの3階にあるくまざわ書店で見つけて、ぱらぱらと立ち読みしたらものすごく良いなと思ってとても買いたかったのだけど、私はつい先日アルバイトが決まったばかりのニートであるので新刊の単行本をやすやすと買えるような身分ではないと棚に戻し、また考えてやっぱり欲しかったらその時買おうと決めて帰ったのだった。が、翌日たまたま行ったとなり町の大きなデパートの2階のこれまたくまざわ書店で再会を果たし、また手に取ってぱらぱらして、なぜだか今度は涙が出てきてしまうくらいだったので、これは身を削ってでも買うべき本だとレジへ向かったのであった。涙の理由は、「どうしよう、私、哲学がしたいかもしれない」と思ってしまったからだった。哲学。アリストテレスだとかニーチェだとかソクラテスだとかよくわからんがカタカナの強そうな名前が並ぶあの哲学。私は高校生の頃、進学先に悩んだ時割と本気で哲学という選択肢を考えていた。調べたら哲学部がある大学はほんのわずかで、東大とか行かないとだめっぽかったのでこりゃ無理だと諦めた。私はずっと「考えすぎ」と言われてきた。親にも、友達にも、恋人にも。「考えすぎるところがいいところであり悪いところだよね」「考えすぎだよ、もっと気楽にしないともたないよ」「考えるくせに最後の詰めが甘いよね」などとよく言われた。考えるのが好きなのか、嫌いなのか、もはや自分でもよくわからないが、放っておくとすぐ考えた。それも、考えなくてもよさそうなことを考えた。「何もないってどういう状態だろう」とか。「何もないってことは空気もないってことだ。それなら真空状態なら何もないってことになるか?いや、真空だとしても、そこには真空という状態が"ある"ってことになる。色は?白だって白い色として存在できる。何もないって不可能じゃない?」というようなことをひとり頭の中でぶつぶつぶつぶつと考えていた。ってことを、この本を読んで思い出したのだ。そういえば、そんなことを考えていた頃もあったなと。「何もないとはどんな状態を指すか」なんて、考えたところで生きていくのにおそらく何の役にも立たないだろう。でもあの頃の私にはそれが気になって、ひたすら考えを巡らせていた。それってもしかしたら豊かなことだったのかもしれない、と思ったのだ。そんな豊かさを持っていた幼い頃の自分に想いを馳せて、切ないような嬉しいような気持ちになって、涙がこぼれた。考えない方が生きやすい。社会に適合しやすい。それでも私は考えてしまう。お金ってなんだよ。人はいつか死ぬのになんで生きるんだよ。幼い頃は考えることを楽しむように素朴に考えたものだが、近頃はままならない自分の生き方や社会の理不尽さへの憤りを帯びて、なんだかひりついている。私は私のまま考えて、生きたいのだ。正解が並べられたような道を疑問も持たずに歩くことはできない。不器用だろうが、馬鹿だと言われようが、きっと私はこういう生き方しかできないから。ならば、いっそのこと楽しんでしまおう。考えることを。どうでもいいことを、どうでもよくないものとして、この手に掴んで、考え尽くそう。私が私として生まれたことを、喜び生きよう。そんなふうに今は少し思えるのだ。
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